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ライター山本千壽による雑文・写真・備忘録

「赤い靴はいてた女の子」 ……人は見たい姿を見る

■「赤い靴」をめぐる2冊
 

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童謡「赤い靴」を巡る論争の、発端となった1冊と、その矛盾を突く1冊である。
 
1冊目の「赤い靴はいてた女の子」は、北海道テレビの菊地寛氏が「赤い靴」にはモデルがいるとし、独自の取材の結果を「ドキュメンタリードラマ」として放送。その過程や放送内容を再構成したものである。
 
ことのおこりは
「“赤い靴”の女の子は私の姉である(と母から聞いた)」
と言う老女の投書。
 
その老女の証言から調査を重ね、作詞した詩人・野口雨情が過去に出会った女性から聞いた話をもとにした、としている。
 
その女性は、未婚で娘を産み落としたのち、別の男性と結婚。当時、北海道には社会主義運動の一環で、平民農場という開拓村があった。二人はそこを頼って開拓生活に入るが、生活は過酷を極めた。結婚前に、女性は娘を養女に出す。義父の仲立ちで、娘をアメリカ人宣教師の養女とするも、少女は結核を発症。宣教師は帰国することになったが、養女は長旅に耐えられない。やむなく東京の孤児院に預けられ、そのまま一人で病没した。
 
これがドキュメンタリードラマとして放送されて以後「定説」となり、「赤い靴の実話」「赤い靴の悲劇」は広く認知されていく。
 
さて、2冊目の「捏像 はいてなかった赤い靴」は、この定説が事実ではないとする1冊。
ひとつひとつの事例を事実と照らし合わせて、信憑性ナシと、断じていく。
その執念と緻密な調査姿勢は頭が下がる思いがすると同時に、近寄りがたい気迫に満ちている。
ただ残念なのは、事例ひとつひとつの正誤にこだわるあまり、
「では、赤い靴の少女モデルはいたのか、いないのか? いたなら本当は誰なのか?」
という核心をついていない部分だろう。分からないのである。そういう意味でモヤモヤしたものは残る。
 
著者の阿井渉介氏は、“定説”への異論を唱える「日本赤い靴の会」の会長に就任し、誤りを次世代に引き継がせない運動を続けている。
 
 
■つきはじめる「色」
 
さて、この2冊を続けて読むと“定説”の中にある無理と、2冊に共通すること。つまり事実のみが浮き彫りになる。
 
・「赤い靴」という童謡があること
・アメリカ人宣教師が日本にきていたこと
・北海道に社会主義活動による開拓村があったこと
・その開拓村に夫婦の入植者がいたこと
・夫婦の妻は、婚前に女児を産み養女に出したことがあること
・東京麻布に孤児院があり、そこで人生を終えた少女がいたこと
 
事実のほとんどが点と点であり、そこをつなぐ証明は、実は多くないのである。
それをつないで見せたのが、“定説”とされている「赤い靴はいてた―」である。
テレビマンの手による本らしく、内容は非常に分かりやすく、そのために広く受け入れられた。
それゆえ、“定説”は一人歩きをはじめる。
 
物語に様々な「色」がつきはじめ、それぞれの「色」に応じた銅像が、全国各地に建立されていくのである。
 
 
■全国の「赤い靴」像
 
【1番目の色】苦労する母
“定説”「赤い靴はいてた―」は、ドラマ性を持たせるべく、不明な部分を想像で補うという手法を用いている。
テレビにはある程度の演出があり、時にやらせも珍しらしくないと、知っている今の視聴者の目線で読めば、
「事実を元にしたドラマ」
であると受け止められるが、この本が出版された1979年では、まだ放送されるものへの信頼度は高かった。
そういう点で、赤い靴の少女=きみは、母親と血のつながらない養父との私通によって出来た子であるなど「想像で補った部分」は罪深い。
 
ちなみに、テレビでこの母親演じたのは、「男はつらいよ」のさくら役でお馴染み、倍賞千恵子である。
手を荒らして懸命に働く女性、苦労を重ねるいじらしい女性。人生の過酷さから、手放してしまった我が子。
ふしだらで、自堕落で、我が子を切り捨てた鬼のような女ではない。
決して悪いイメージではないが、方向性が定まる。
この苦労して子を育む母、泣く泣く子を手放す母、のイメージは、静岡県日本平の『母子像』(洋装の娘に寄り添う、日本髪に着物の母)に受け継がれている。
 

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▲「赤い靴はいてた女の子」の帯より。
 
 
【2番目の色】社会主義の夢、開拓の精神
 
きみの母親とその夫は、北海道の平民農場へ入植する。
この平民農場という事業自体が、わずか2年半の短命に終わっている。その挫折と哀惜の念は、明治社会主義者のロマンと、ひいては北海道開拓という偉業を投影するエピソードとなっていく。
夫婦の入植地であった北海道留寿都村には赤い靴の少女=『母思像』が立てられているが、その相対する位置に『開拓の母』の像も立っているのである。
親子離ればなれになりながらも、果敢に北海道の開拓に身を捧げた。
その一面がクローズアップされ、開拓の歴史に目を向けさせている。
 
 
【3番目の色】かわいそうな少女に愛の手を
 
きみという少女が、短い生涯を終えた場所は、麻布の鳥居坂教会の孤児院である。
東京都麻布十番には、“赤い靴の少女終焉の地”を理由に『きみちゃん像』が立ち、
また、北海道函館市には、母と娘が別れた(とされている)地であることを理由に、赤い靴の少女が一人で立つデザインの『きみちゃん像』が建立されている。
麻布十番一人では「きみちゃん」の名を掲げた募金活動も行われている。
鳥居坂にいた少女・きみが、赤い靴の少女かどうかは別として、幸薄い少女たちの鎮魂として、また今日の恵まれない子たちの為に『きみちゃん』は別の道を歩き出している。
 
 
【4番目の色】家族愛
 
いわゆる“定説”を飲み込み、さらに膨らませたイメージ像である。
北海道小樽市『赤い靴 親子の像』と、青森県鯵ヶ沢町『赤い靴親子三人像』は、きみ、きみの母、母の夫の3人が家族の図として描かれている。
幼くして親の手を離れた子を、親元に帰したいという気持ちの表れであるとは思う。
「赤い靴」の“定説”を耳にした人が、「こうあってほしかった」と夢想する姿を形にしているともいえる。
が、この三人が親子として暮らしたという記録が残っていない。阿井説では、きみの母と夫が北海道に入植する直前、孤児院に入れられていたとしている。
また、きみの母と夫との間には、のちに子供が産まれている(そのひとりが、当初の老女である)。
 
北海道と青森にある家族の像は、決して3人家族ではなかった家庭を、3人きりで描くことの不自然さが拭えない。
いわゆる“定説”とされている、「赤い靴の物語」の中では、ヒロインには兄弟姉妹はいない方が座りがよいようである。
 
 
 
童謡「赤い靴」はひとつしかない。
しかしそこに人は様々に、各々見たい物を投影して見ている。
 
各地に乱立する「赤い靴」関連像は、
「この地こそ、かのドラマの舞台です」
「このドラマを、こういう風な目線で見てください」
とご丁寧にもレクチャーしているのである。