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ライター山本千壽による雑文・写真・備忘録

「織田信長と明智光秀の子孫が和解」のテレビ企画とその顛末

織田信成のエキシビジョンをみていてふと思い出した。

その昔テレビのワイドショーで

「織田信長と明智光秀の子孫が和解」

という企画を放送していた。

 

検索してみると、テレビ朝日系ワイドショー「スーパーモーニング」でのことで放送は2004年。もう十年近く前のことになるのか。

放送内容は、それぞれの子孫で50代の熟年男性をつれてきて、たしか屋外で語り合わせていた。

明智家側が「随分と名前と祖先のことでいじめられてきた」と語れば、

織田家側は「もう400年も前のことなので……」

とふんわりと着地させていた。

 

なんか煮え切らない、淡々とした話し合いを「400年ぶりの快挙!」と煽っていたように思う。

今も検索すればこの放送のことは出てくる。

 

しかしこのエピソードには後日談があったのも記憶している。

翌日のスーパーモーニングで、女性キャスターが、

 

昨日放送の織田家・明智家の和解のニュースは、あくまでも放送に登場した「個人」同士のことであって、家としては認められていないとのことですので、ご了承ください。

 

という内容のコメントをサラサラと読み上げていた。

 

きっとご親戚筋は知らなかったのだろう、怒りの苦情が入ったのか。

さすがに古い家柄ではいろいろ大変だ、と、女性キャスターの「この件はもう店じまい」と言わんばかりの切り上げ口調に、話のややこしさを連想していた。

 

そういえば、織田信成がマスコミに登場しはじめたころ、彼のお母さんがテレビの取材をうけていて、

「この家に嫁いできたとき、姑から『桔梗の花だけは生けてはいけない』ときつく言われたものです」

と話していた。

言うまでもなく、明智家の家紋が桔梗紋であることに由来している。

 

それぐらい徹底した伝統の関係が、テレビの企画ぐらいで公式和解なんか、無理だよなあぁ、と痛感。

 

※そういえば、最近も「武田信玄の子孫」を名乗るモデルが出て、武田家関係者にぺしゃんこになるまでたたかれていたのも思い出す。

 

 

【備忘録】「日曜9時は遊び座です」(2)

【設定】

 ストーリーは1話完結。

共通しているのは、ある町内会を舞台に、三浦洋一・岡田奈々扮する兄弟を中心に、おなじみの仲間が繰り広げるドタバタコメディーいう点。

ある時はうわさ話がきっかけとなり、ある時は兄弟喧嘩が発端となるなど、昔ながらの安定した笑いを提供する。

同じ街を舞台に、同じメンバーが繰り広げる、あったかい雰囲気。

悪人は誰一人登場しない安心感。

 

芝居が終ると、欽ちゃん、三浦洋一、岡田奈々らが再登場し、その回の内容にちなんだ軽いトークを繰り広げる。

エンディングは、テーマ曲である「グッド・ナイト・エンジェル」を、三浦洋一が生歌で歌う。

イントロ部分では、音楽乗せて3人が歌詞の一部をモノローグ風にかぶせてから、歌に入った。

 

 

【登場人物】(耳で確認しただけなので、カタカナで表記します)

 

■キタザワ カズオ……三浦洋一

独身。妹との二人暮らしの小学校教師。3年生の担任。

好きな言葉は「義を見てせざるは勇なきなり」。

無類のパチンコ好き。

靴下は汚れが落ちなくなるまではき、シャンプーが無くなるとお湯を足して使うなどいたって庶民的。

妹からは強い兄とは評価されていない。

 

■キタザワ ハツミ……岡田奈々

カズオの妹。独身。恋人はいないが好きな人はいる。

スーパーで働いている。

小鉢がもらえるクーポンを集めている。

カレーにひき肉を入れることもある。

カズオにパチンコの極意を教えた。

ヨッチャンの悪ふざけやギャグに、それを上回るノリボケで応酬できる。

 

■ササキ ロクロウ……河西健司

カズオの友人。

法律を学ぶ学生。大学卒業に8年かかった。

卒論のテーマは「自立した女性における離婚願望」。

ハツミに思いを寄せている。

カズオをモデルにした小説で、新人賞の最終選考5名に残るが惜しくも落選。

作品タイトルは「花嫁は真珠の涙」。

 

■トオヤマ テツヤ

カズオの後輩。

ササキ同様、ハツミに惚れている。

柔道三段。スポーツマンタイプで力が強い。

顔が大きく、だまされやすい。

感極まると言動が芝居がかり、大げさでクサくなる。

「頭の両サイドが絶壁」状態に刈上げている。

長らく仕事に恵まれなかったが、軽トラックの運転手として宅配便に就職する。

青森出身。

 

■キノシタ ヨウスケ(ヨッチャン)……中島陽典

だじゃれやモノマネ、ナンセンスギャグを多用し盛り上げる、街のマスコット的存在。

決め台詞「えーい、踊ってしまえー!」は流行し、番組終盤では「えーい」のかけ声を合図に、「踊ってしまえー」の部分を客席が合唱するほど盛り上がりを見せた。

大半はおちゃらけているが、ときおり物事の核心を突き、周囲をハッとさせることも。

テツヤ曰く「このあたりの環境保護動物」。

 

■マツダイラ セツコ……田島令子

バツイチの大人の女性。

カズオ兄妹のアパートの大家。

ササキらによる年齢いじり、熟女ネタは定番。

  

■欽ちゃん……萩本欽一

メンバー行きつけの喫茶店「ケン玉」のマスター。

皆がツケを重ねて、赤字になっても支払いを催促しない。

どんぶり勘定の経営がたたり、暴力金融に借り入れをしたことがある。

時折現れるリョウコに淡いあこがれを抱いている。

リョウコが風邪をひいた折、おかゆをもっていった。

 

 

■トオヤマ カズヒロ(カズ坊)……風見慎吾

テツヤの弟。高校生。

「ケン玉」でバイトしている。

 

■リョウコ

登場場面は少ないが男性陣のヒロイン的存在。

着物を着こなし、日舞の心得がある。

おしとやかに見えるが、カズオに誘われ一緒にパチンコを打ったことがある。

 

■トオヤマ シズ……菅井きん

テツヤとカズヒロの母。1話のみ登場。

郷里の青森に住んでおり、1日だけ上京してきた。

 

 

※テツヤ役の役者さんの名前が不明なので、ご存知の方お知らせください。

 

【備忘録】「日曜9時は遊び座です」の思い出(1)

 

「日曜9時は遊び座です」という番組があったのを、ご記憶の方はどれほどいるだろうか。

1984年10月 〜 1985年3月にに本テレビ系で放送していた、萩本欽一のバラエティ。いわゆる“欽ちゃん番組”のひとつである。

オンステージで芝居(喜劇)を行い、観客を入れてそれを収録・放送するというスタイル。

視聴率が伸び悩んだこともあり、ソフト化はされていない上、ネット上に残る情報も少ないという、恵まれない番組である。

 

しかし、私がこの番組が非常に好きだった。

笑いのプロが手がけるすばらしく良い台詞と笑いのテンポ。

プロとしてそれを表現できるそ出演者の演技力。

思えばその後、舞台が好きになり、ミュージカルのライターに進む、その最初の一歩だったのかもしれない。

 

当時、小学生だったがなんとかしてこの番組を残したい、手元におきたいと思い、音声をテープで残していた。

最近、それが出てきたので、そこから拾える限りの情報を記していきたいと思う。

なお、途中からの録音なので、不足情報が多い点はご容赦いただきたい。

 

「赤い靴はいてた女の子」 ……人は見たい姿を見る

■「赤い靴」をめぐる2冊
 

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童謡「赤い靴」を巡る論争の、発端となった1冊と、その矛盾を突く1冊である。
 
1冊目の「赤い靴はいてた女の子」は、北海道テレビの菊地寛氏が「赤い靴」にはモデルがいるとし、独自の取材の結果を「ドキュメンタリードラマ」として放送。その過程や放送内容を再構成したものである。
 
ことのおこりは
「“赤い靴”の女の子は私の姉である(と母から聞いた)」
と言う老女の投書。
 
その老女の証言から調査を重ね、作詞した詩人・野口雨情が過去に出会った女性から聞いた話をもとにした、としている。
 
その女性は、未婚で娘を産み落としたのち、別の男性と結婚。当時、北海道には社会主義運動の一環で、平民農場という開拓村があった。二人はそこを頼って開拓生活に入るが、生活は過酷を極めた。結婚前に、女性は娘を養女に出す。義父の仲立ちで、娘をアメリカ人宣教師の養女とするも、少女は結核を発症。宣教師は帰国することになったが、養女は長旅に耐えられない。やむなく東京の孤児院に預けられ、そのまま一人で病没した。
 
これがドキュメンタリードラマとして放送されて以後「定説」となり、「赤い靴の実話」「赤い靴の悲劇」は広く認知されていく。
 
さて、2冊目の「捏像 はいてなかった赤い靴」は、この定説が事実ではないとする1冊。
ひとつひとつの事例を事実と照らし合わせて、信憑性ナシと、断じていく。
その執念と緻密な調査姿勢は頭が下がる思いがすると同時に、近寄りがたい気迫に満ちている。
ただ残念なのは、事例ひとつひとつの正誤にこだわるあまり、
「では、赤い靴の少女モデルはいたのか、いないのか? いたなら本当は誰なのか?」
という核心をついていない部分だろう。分からないのである。そういう意味でモヤモヤしたものは残る。
 
著者の阿井渉介氏は、“定説”への異論を唱える「日本赤い靴の会」の会長に就任し、誤りを次世代に引き継がせない運動を続けている。
 
 
■つきはじめる「色」
 
さて、この2冊を続けて読むと“定説”の中にある無理と、2冊に共通すること。つまり事実のみが浮き彫りになる。
 
・「赤い靴」という童謡があること
・アメリカ人宣教師が日本にきていたこと
・北海道に社会主義活動による開拓村があったこと
・その開拓村に夫婦の入植者がいたこと
・夫婦の妻は、婚前に女児を産み養女に出したことがあること
・東京麻布に孤児院があり、そこで人生を終えた少女がいたこと
 
事実のほとんどが点と点であり、そこをつなぐ証明は、実は多くないのである。
それをつないで見せたのが、“定説”とされている「赤い靴はいてた―」である。
テレビマンの手による本らしく、内容は非常に分かりやすく、そのために広く受け入れられた。
それゆえ、“定説”は一人歩きをはじめる。
 
物語に様々な「色」がつきはじめ、それぞれの「色」に応じた銅像が、全国各地に建立されていくのである。
 
 
■全国の「赤い靴」像
 
【1番目の色】苦労する母
“定説”「赤い靴はいてた―」は、ドラマ性を持たせるべく、不明な部分を想像で補うという手法を用いている。
テレビにはある程度の演出があり、時にやらせも珍しらしくないと、知っている今の視聴者の目線で読めば、
「事実を元にしたドラマ」
であると受け止められるが、この本が出版された1979年では、まだ放送されるものへの信頼度は高かった。
そういう点で、赤い靴の少女=きみは、母親と血のつながらない養父との私通によって出来た子であるなど「想像で補った部分」は罪深い。
 
ちなみに、テレビでこの母親演じたのは、「男はつらいよ」のさくら役でお馴染み、倍賞千恵子である。
手を荒らして懸命に働く女性、苦労を重ねるいじらしい女性。人生の過酷さから、手放してしまった我が子。
ふしだらで、自堕落で、我が子を切り捨てた鬼のような女ではない。
決して悪いイメージではないが、方向性が定まる。
この苦労して子を育む母、泣く泣く子を手放す母、のイメージは、静岡県日本平の『母子像』(洋装の娘に寄り添う、日本髪に着物の母)に受け継がれている。
 

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▲「赤い靴はいてた女の子」の帯より。
 
 
【2番目の色】社会主義の夢、開拓の精神
 
きみの母親とその夫は、北海道の平民農場へ入植する。
この平民農場という事業自体が、わずか2年半の短命に終わっている。その挫折と哀惜の念は、明治社会主義者のロマンと、ひいては北海道開拓という偉業を投影するエピソードとなっていく。
夫婦の入植地であった北海道留寿都村には赤い靴の少女=『母思像』が立てられているが、その相対する位置に『開拓の母』の像も立っているのである。
親子離ればなれになりながらも、果敢に北海道の開拓に身を捧げた。
その一面がクローズアップされ、開拓の歴史に目を向けさせている。
 
 
【3番目の色】かわいそうな少女に愛の手を
 
きみという少女が、短い生涯を終えた場所は、麻布の鳥居坂教会の孤児院である。
東京都麻布十番には、“赤い靴の少女終焉の地”を理由に『きみちゃん像』が立ち、
また、北海道函館市には、母と娘が別れた(とされている)地であることを理由に、赤い靴の少女が一人で立つデザインの『きみちゃん像』が建立されている。
麻布十番一人では「きみちゃん」の名を掲げた募金活動も行われている。
鳥居坂にいた少女・きみが、赤い靴の少女かどうかは別として、幸薄い少女たちの鎮魂として、また今日の恵まれない子たちの為に『きみちゃん』は別の道を歩き出している。
 
 
【4番目の色】家族愛
 
いわゆる“定説”を飲み込み、さらに膨らませたイメージ像である。
北海道小樽市『赤い靴 親子の像』と、青森県鯵ヶ沢町『赤い靴親子三人像』は、きみ、きみの母、母の夫の3人が家族の図として描かれている。
幼くして親の手を離れた子を、親元に帰したいという気持ちの表れであるとは思う。
「赤い靴」の“定説”を耳にした人が、「こうあってほしかった」と夢想する姿を形にしているともいえる。
が、この三人が親子として暮らしたという記録が残っていない。阿井説では、きみの母と夫が北海道に入植する直前、孤児院に入れられていたとしている。
また、きみの母と夫との間には、のちに子供が産まれている(そのひとりが、当初の老女である)。
 
北海道と青森にある家族の像は、決して3人家族ではなかった家庭を、3人きりで描くことの不自然さが拭えない。
いわゆる“定説”とされている、「赤い靴の物語」の中では、ヒロインには兄弟姉妹はいない方が座りがよいようである。
 
 
 
童謡「赤い靴」はひとつしかない。
しかしそこに人は様々に、各々見たい物を投影して見ている。
 
各地に乱立する「赤い靴」関連像は、
「この地こそ、かのドラマの舞台です」
「このドラマを、こういう風な目線で見てください」
とご丁寧にもレクチャーしているのである。 

【読書録】誘拐報道 読売新聞大阪社会部

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映画化されたのでご記憶にある人もいるかも。
主演の誘拐犯は萩原健一。その妻が小柳ルミ子
ショーケンが、自分の娘の友達を誘拐。
加害者側と被害者側の子供が友達だったことから、双方の家族に一層の悲劇が……という物語。
 
この映画では、主演のショーケンの鬼気迫りっぷりもさることながら、誘拐犯の娘を演じた高橋かおりの名子役ぶり、さらには誘拐犯の妻を演じた小柳ルミ子も見逃せない。
小柳ルミ子は本作でキネマ旬報助演女優賞と、日本アカデミー賞助演女優賞をダブルでゲット。女優業に弾みをつけ、翌年の日本アカデミー賞では「陽暉楼」の池上季実子、「楢山節考」の坂本スミ子(!)、田中裕子、夏目雅子を押さえて、堂々の最優秀主演女優賞を手にする。
 
本作はビデオ化まではされているものの、DVD、BDはスルーされたまま。
その理由は様々推理されているが、真相はどうなのかと思って、原作を読んでみた。
 
原作は、読売新聞大阪社会部が描いた、実際の誘拐報道の裏側本。
という体ではあるが、自戒を込めて文字に残した一冊でもあったりする。
 
自戒というのは、この読売新聞大阪社会部が、誘拐事件に際して結ばれた、報道協定を密かに破って取材活動をしていたということ。
これが災いして、読売新聞は短期間ではあるが記者クラブを除名になる。
 
でも問題は不名誉な除名うんぬんではない。もっと大きい問題がでてくる。
 
「報道協定があるからといって、何の取材活動もしないでは、ジャーナリストといえない!」
的に燃え上がった記者たちが、水面下で取材活動を繰り広げた。
「要は、犯人側に知られなければいいんだろ?」
と、犯人が目を向けない(であろう)、被害者周辺にも取材をかけた。
規制されていたのは、被害者宅の周辺、所轄の警察署周辺だけだったからだ。
被害者児童の学校に向かい、担任の証言をひきだした記者もいた。
 
こうした活動が功を奏し、報道解禁と同時に、読売新聞は他社とは比較にならぬ情報量を掲載した号外を配布。報道合戦を制する。
 
しかし、後で誘拐犯が被害者児童の同級生の父と聞き、関係者は冷や水を浴びせられる。
大丈夫とふんでいた学校側への取材が、下手をしたら犯人側へもバレかねない蛮行だったからだ。下手したら追いつめられた犯人が子供を手にかけていてもおかしくなかった(実際には大丈夫だったけど)。
 
いわゆるマスコミが第四の権力と呼ばれ、まだ現代ほどその権威が失墜していなかった時代の事件である。
もしこれが今の時代なら、新聞社への非難は壮絶を極めるだろうし、原作が映画化など企画も持ち上がらないだろうに。
 
というわけで、この映画作品がDVD/BDでよみがえると、読売新聞のコンプライアンスが、今更問われかねないという話。